🍳 計量スプーンを使わない女、使い方もよく知らない
調理実習以外で計量スプーンを使ったことがない。
料理が上手いから使わない、ではなく、単に小さい頃から家に“計る文化”がなかった。
実家の味付けはだいたい「目分量」。
醤油は「ひと回し」。砂糖は「気持ち」。塩は「ちょっと」。
この“ちょっと”の幅が家族全員で違っていても、誰も気にしない。平和。
だから私も大人になってレシピを見ても、
「醤油 大さじ1」
と書いてあるのを見て、こう思う。
(大さじ1って……どの“さじ”……?)
よく考えたら「大さじ」と「小さじ」のサイズ差も、頭では知ってても手が覚えていない。
さらに「すり切り」って、どの状態?
あれは水平にするの?ナイフで?指で?カードで?
計量スプーン界隈にはルールがあるっぽい。
そして私は、そのルールに参加する前に、いつも逃げる。
結局、入れる。
味を見る。
足す。
また味を見る。
なんか濃い。
水を足す。
薄い。
また足す。
料理が化学実験に変わる瞬間である。
しかもたまに、後からレシピを見直して気づく。
「えっ、醤油“少々”って書いてた……」
(大さじで殴りに行ってたの私だけだった……)
計量スプーンを使わない人間は、計量スプーンがなくても生きていける。
ただし、その代わりに舌で全責任を負うことになる。
そして私の舌は、たまに平気で裏切ってくる。
🥬 偏食&小食だったのに、希望にも戒めにもなる存在
小さい頃の私は、すごい偏食&小食だった。
野菜と魚はほぼ食べられない。給食は毎日が交渉。
家の食卓では「食べなさい」VS「無理」の戦争が小さく起きていた。
その話をお子さんのいる人にすると、だいたいこう言われる。
「それでも大人になったら、ぴよりさんみたいに大きくなれるんですね……!」
安心のまなざし。
しかし私は、ここで真顔になる。
「身長、中学で止まりました」
「成人してから食べ出したので、横にだけ育ちました」
すると相手の顔が、希望から教育へ切り替わる。
「……やっぱり子どもの好き嫌いは直そうと思います」
私の人生、他人の育児方針を左右しがち。
しかもややこしいのが、私は今は野菜も魚も普通に食べる。
むしろ「これおいしい」と思える範囲が広がって、食の世界が急に明るくなった。
なのに体型の説得力だけは、常に「遅咲きの副作用」をまとっている。
つまり私は、
「好き嫌いしても大人になれば食べられるようになる」派の希望であり、
「でもその代わり横に育つかもしれない」派の警告でもある。
どっちの教材にもなるの、地味に忙しい。
👨🍳 他人のごはんは神、私のごはんは裁判
人の料理や外食のものは、基本的に何でもすごくおいしい。
コンビニでも「うま……」。定食屋でも「うま……」。人の手料理はほぼ「天才……」。
私は味に対して寛容、というか、だいたい感動している。
問題は、自分の料理である。
自分の料理にだけ、ジャッジがめちゃくちゃ厳しいらしい。
煮物が少ししょっぱかったら、心の中で始まる。
「この煮物を作ったのは誰だー!」
「私だー!!」
セルフ海原雄山、開幕。
しかも私はその後、すぐに“追い打ち”をかけるタイプで、
「この味で出す神経が分からん」
「もう一回作り直すべきでは?」
「いや、でも材料がもったいない」
「じゃあ私が全部食べればいいのか?」
脳内で判決がまとまらない。
一方で夫は、だいたい何でも食べてくれる。
「おいしいよ〜」と言う。
そこに私はキレる。
(いや、これは“おいしい”じゃなくて、“食べられる”だろ)
夫の優しさに、私が勝手に疑いをかける構図。理不尽。
そして翌日、冷蔵庫で味が落ち着いた煮物を食べて、私はこうなる。
「……うま」
(昨日の私は何を裁いていた……?)
自分の料理をいちばん信用してないのが、たぶん私。
📒 手書きレシピ、宝物だけど誰も読めない
気に入ったレシピは手書きでルーズリーフに書いて、ファイルしている。
この時代に逆行するように、わざわざペンで書く。なぜなら、なんか“手に入れた感”があるから。
ただし、字がめっちゃ汚い。
汚いというか、急いで書くので文字が短距離走している。
ときどき自分でも読めない。
「にん…にん…? これ“にんじん”?」
「“煮る”が“盛る”に見えるけど、盛りながら煮るのは無理」
「“大さじ”が“犬さじ”に見える、犬はさじを使わない」
解読するたびに、料理が謎解きゲームに変わる。

ドラマでよくある「亡くなったお母さんのレシピノート」みたいな、
しっとり泣けるやつ、絶対できない。
私が死んだら残るのは、
「亡くなった人の暗号ノート」である。
誰かが見つけても、きっとこう言う。
「……警察に相談した方がいい?」
いや、レシピです。ほんとに。食べられます。
せめて生きてるうちに清書すればいいのだが、
私は今日も汚い字で増やしている。
将来の自分に仕事を残すプロ。
🧓 こぶし大コロッケの血筋は、私の鍋にも宿る
大正生まれの祖母は、たまに無理して“今どきの料理”を作ってくれた。
「今の子はハンバーグとかコロッケっていう欧米のものが好きらしい」
本やテレビを見ながら、一生懸命作ってくれる。
ここまでは最高。ありがたい。愛。
しかし祖母は、サイズの基準を知らなかった。
そして「食べ物は大きければいい」と思っていた。
結果、
コロッケ:成人男性のこぶし大
ハンバーグ:アメリカのミートローフ級
もはや“主菜”ではなく“地形”。
家族で分ける前提のサイズなのに、本人は一人一個ずつ配る。
祖母、配給のセンスが戦国。
そして悲しいことに、この精神は私にも受け継がれてしまっている。
私は普段「ちょっとだけ丁寧に」とか言うくせに、
盛り付けの時点で皿が足りなくなる。
鍋を作ると二人家族なのに「避難所の炊き出し」みたいになる。
「控えめに作ったつもりなんだけどな」
と言いながら、鍋から溢れそうな白菜を押し込む私。
たぶん血筋というより、
祖母の“愛情は量”主義が、どこかでまだ生きている。
ちなみに夫はそれを見て、たまに言う。
「これ、何人前?」
私も知りたい。
🌪 結局、私は今日も“だいたい”で生きている
計らない。
偏食だった。
自分の料理に厳しい。
字が汚い。
料理が大きい。
こうして並べると、わりと終わっている。
でも料理はちゃんとおいしい。ここだけは譲らない。
私はたぶん、「うまくやる」より「面白く続く」を選んでるタイプだ。
完璧にやろうとしても、向いてない。
向いてないのにやると、だいたい疲れて、全部投げる。
だから今日も、計量スプーンは使わず、
暗号ノートを見ながら、
セルフ海原雄山に怒られつつ、
こぶし大の何かを作っている。
そして食べ終わるころには、だいたいこう思う。
「……まあ、今日も勝ちでいいか」
(※勝ちの基準は不明)
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